資料解説
|
2018文化財ウィーク展示資料解説p.1(4)「江戸のまちが拡大し、1枚の地図では詳細が盛り込めなくなったこと、大型では携帯しづらいことから、幕末には「切絵図(きりえず)」という、エリアごとの地図が作られました。その切絵図で、最初に販売されたのが本図です。現在の飯田橋、九段、麹町、四谷辺りを描いています。当時は、似た構(かま)えの旗本屋敷が立ち並び、地番や表札(ひょうさつ)がなかったため、切絵図は、来訪者の利便性を考えて生み出されたのです。(Zonal Map of Banchō)Because the town of Edo had expanded, it had become impossible to fit all the details into a single map, while a larger map was difficult to carry around. So, zonal maps dividing Edo into different areas came to be published in the final days of the Tokugawa shogunate. This map was the first one that went on sale.」,2011大規模企画展(6)「吉文字屋板という、最初に発売された切絵図です。番町は旗本の屋敷が密集していましたが、各家に表札が出ていたわけではなく、「番町にいて番町しらず」といわれたほど判然としない町でした。次に切絵図を刊行したのは荒物屋の近江屋五平で(弘化3年1846 通称近吾堂板)、自分の住んでいる地域がわかりにくいのでと、番町の図から刊行しています。」,2011-2大規模企画展『江戸の町づくり』リーフレットp.1「最初に刊行された切絵図です。現在の飯田橋から九段、富士見町、番町、麹町、四ツ谷にかけての地域が描かれています。番町は旗本の住宅地として開発されたところで、半蔵門から四ツ谷に抜ける甲州街道沿いの町家をのぞく90%が旗本屋敷であったということです。「番町の番町知らず」という言葉もあったほど複雑でわかりにくい地域であったといわれています。」,2003文化財ウィーク(17)「江戸のような大都市の場合、1枚図では詳細な情報まで盛り込むことができず、また大型では携行に不便であるなどの理由から、地域毎に分割した切絵図が考え出された。この番町地域は、武家屋敷地帯で道がわかりにくいことが定評となっていたため、必要上まずここから刊行されたようだ。吉文字屋板は、宝暦5年から安永4年まで、21年間かかってわずかに8図を出して終わった。展示資料17・18はともに宝暦5年の刊記を持つが、版元の組合せが異なり、諸処に埋木による修正も見られる。」,『江戸地誌とその周辺』図録解説p.2「江戸最初の切絵図中の1枚。吉文字屋・美濃屋による合同出版。宝暦5年の本図に始まり、安永4年の『築地八町堀日本橋南之図』まで20年間に八枚を刊行したが、全府内をカバーするには至らず、隅田川西部の区分図4枚は出版予告のみに終わった。なお、吉文字屋・美濃屋の切絵図は、別に吉文字屋・北畑氏(須原屋茂兵衛)の合同出版としても刊行されている。切絵図は、江戸市街の発展にともない、従来の1枚図ではカバーしきれなくなったこと、より詳細な図への需要が高まってきたこと等に応じて作成され、幕末にはその盛行をみるに至った。」
|