資料解説
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2018文化財ウィーク展示資料解説p.1(2)「明暦(めいれき)の大火(たいか)(1657年)後、大目付(おおめつけ)で洋式測量術の権威だった北条安房守(あわのかみ)氏長(うじなが)が、幕命により行った実測をもとに刊行された江戸図。麹町・日本橋・京橋・芝等を含んでいます。この外側の地域を対象とした『新板江戸外絵図』4枚と合わせ、寛文五枚図と呼ばれています。距離・方位が正確で、以後の江戸図に影響を与えたと言われています。(The New Editions of Extensive Maps of Edo Covering the Area from Kōjimachi to Nihonbashi, Kyōbashi, Uchisakurada, and Shibasuji )After the Great Fire of Meireki (1657), this map was published based on an actual survey. The distances and bearings are accurate, and it is said to have set an example for maps of Edo published thereafter.」,2011-1大規模企画展『江戸の町づくり』リーフレットp.3「江戸城とその周辺、いわゆる御府内を描いています。江戸城は城郭だけが描かれているのは幕府がこの部分を切り除かせたため、といわれています。刊記に「縮尺は1分(約0.3cm)5間(9.85m)のつもりにした、ただし、1間は6尺5寸である」と書かれています(1尺は約30.3cm)。」,2003文化財ウィーク(8)「明暦の大火後、大目付で洋式測量術の権威でもあった北条安房守氏長が、幕命により行った実測をもとに刊行された画期的な江戸図。当図は、麹町・日本橋・京橋・内桜田・芝筋までを含む1枚。その外側の地域を対象とした、『新板江戸外絵図』と称する図4枚とあわせて一組となり、寛文五枚図と呼ばれている。距離・方位もかなり正確で、以後の江戸図に影響を与えた。」,『第1回江戸資料展』図録解説p.6「明暦大火で死亡者が多かったのは、住民が地理に不案内であったからとして、幕府が刊行を許したと伝えられる。明暦4年幕命で北条安房守氏長が行なった測図を元に、藤井半知(遠近道印)が製図した。これまで実測によらぬ絵図だったのを、一分を五間とする実測図に従ったもので、新板の名にふさわしい。刊行に4年を要した。 第1枚 寛文10年 中央部 第2枚 寛文11年 深川・本庄・浅草 第3枚 寛文11年 浅草・下谷・上野・谷中・湯嶋・本郷・小石川・駒込・染井 第4枚 寛文12年 小日向・牛込・一谷・四谷・高田・大久保・内藤新宿 第5枚 寛文13年 赤坂・青山・麻布・しぶや・しろかね・三田・芝筋・高縄 の順に刊行された。しかし正確であってもあまりにも大型すぎて使いにくいので、のちに同肆は本図を縮小して1枚図として出版した。元禄中の板屋版はその補修である。そして実測で正確な図であることを示すために「『遠近道印』図」と記すことが長く行なわれた。なお、東京市史稿市街篇附録に、五枚を一葉に納めた図があるので参照されたい。」
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