資料解説
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2015文化財ウィーク『江戸城から明治宮殿へ』図録p.3「紅葉山は、元和4年(1618)に東照社(東照宮)が建てられてから、歴代将軍の霊廟が設置され、江戸幕府にとって重要な地となりました。明治元年12月、16代徳川家達に対し、明治政府から、御霊屋を撤去して静岡藩に移すよう、命令が下りますが、徳川家はすでに4月の江戸城明け渡しの時点で牌や宝物などを、上野の寛永寺に移し、警護をしていたということです。明治2年(1869)、霊廟はすべて撤去されました。(Complete Floorplan of Momijiyama (revised June 1714))The mausoleum of the first Tokugawa Shogun, Ieyasu, was built in Momijiyama in 1618. This mausoleum was subsequently used for all other Tokugawa Shoguns, making Momijiyama an important site for the Edo Shogunate. In the first year of the Meiji period (1868), the new government ordered the Shogun to relocate the mausoleum to the newly-designated domain of the Tokugawa clan in Shizuoka. However, the Tokugawas had already placed the mortuary tablets and other valuable objects under guard in Ueno's Kan'eiji Temple when they vacated Edo Castle in April of the same year. By the following year, 1869, the entire mausoleum had been dismantled.」,2013文化財ウィーク(10)「紅葉山は、元和4年(1618)に東照社が建てられてから、歴代将軍の霊廟(れいびょう)が設置され、江戸幕府にとって重要な地となりました。しかし、本格的な霊廟建築が行われたのは六代将軍までで、後の将軍はこれらに合祀されています。幕府が倒れると、明治2年(1869)、明治政府により、霊廟はすべて撤去されました。(Overall diagram of Momijiyama in June 1714)Full-scale mausoleums were only built up to the sixth-generation shogun, and later shogun were enshrined in existing mausoleums.」,1999文化財ウィークリーフレットp.3「紅葉山には、東照宮をはじめ歴代将軍の霊廟が建てられた。紅葉山の本格的な霊廟建築は、6代文昭院までで、以後の将軍は既存の霊廟に合祀された。これらの紅葉山の霊廟も、明治元年12月19日に撤去が命ぜられ、明治2年3月から8月にかけて撤去された。」,『第1回江戸資料展』図録解説p.14「家康をまつる東照宮をはじめ歴代将軍の廟や宝蔵、家康以来の図書を納めた紅葉山文庫等のあった所で、図中の赤が廟堂関係、黄が文庫等の建物である。」
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