カテゴリ /江戸城
資料群 重要文化財
題名
江戸城西丸仮御殿総地絵図  
エドジョウ ニシノマル カリゴテン ソウジエズ  
江戸城西丸仮御殿御表向御中奥向大奥向総地絵図  
エドジョウニシノマルカリゴテンオンオモテムキオンナカオクムキオオオクムキソウジエズ  
江戸城西丸仮御殿総地絵図(題簽)  
数量 1舗
大きさ(cm) 97.0×121.0cm
縮尺 縮尺1:300
造営年度 元治度
建築区分
西丸  
全体  
図面種類 平面図
奥書印記等 大棟梁甲良筑前控 元治元甲子年十二月 元治元甲子年西丸仮御殿御普請絵図
書誌注記 ;;;;;;;;;;;|//////////////|/
資料解説 2023文化財ウィーク第二会場(10)「文久3年(1863)年に焼失後、元治元年(1864)に再建された西丸仮御殿の全体図です。彩色は、表御殿は黄色が表、薄紅が中奥となっています。大奥は黄色が御殿向、薄紅が長局(ながつぼね)、薄橙(だいだい)が広敷(ひろしき)です(出題4解説参照)。本図左側に「二階絵図」 と書かれた貼り紙があり、幕末に新たに設けられた「海軍方」や「外国方」等の執務室が見えます。明治維新後この建物が明治宮殿となります。(Overview of the Temporary Nishinomaru palace of Edo Castle)This is a plan of the Temporary Nishinomaru palace rebuilt in 1864 after the previous palace had been destroyed by fire in 1863. Different colors are used to distinguish the Front, Central and Inner palaces. On the left side there is a label reading "second floor plan," which indicates the offices of officials that were newly established in the final years of the shogunate. After the Meiji Restoration, this building became the Meiji palace.」,2019文化財ウィーク展示資料解説p.2(2),2015文化財ウィーク『江戸城から明治宮殿へ』図録p.7「江戸城は、幕末には、主だった建物であった本丸御殿や二ノ丸御殿などを焼失し、明治を迎えたときに残っていた建物は西丸御殿といくつかの櫓や多門だけでした。西丸も元治元年(1864)に再建されていますが、財政難と幕末の動乱期の影響で、非常に簡略化された建物でした。明治元年(1868)4月に明治政府に引き渡され、同年10月には「東京城」と名前を変え、皇居と定められました。しかし明治6年(1873)5月5日早朝、後宮(女官部屋)からの失火により、西丸を含む一帯が焼失してしまいました。(Overall Floor Plan of the Edo Castle Nishinomaru Palace)The main buildings in Edo Castle, the Honmaru Palace and Ninomaru Palace, were destroyed by fire at the end of the Tokugawa period, and the only buildings to survive into the Meiji period were the Nishinomaru Palace and several towers. The Nishinomaru Palace itself had only been rebuilt recently in 1864, and was a highly simplified structure, reflecting the political turmoil and financial difficulties at the end of the Tokugawa Shogunate.In 1868, the first year of the Meiji period, the palace was handed over to the new Meiji Government, renamed Tokyo-jo (Tokyo Castle), and designated as the Emperor's residence. However, in the early morning of May 5, 1873, a fire which started accidentally in the court ladies' quarters laid waste to the entire precinct, including the Nishinomaru Palace. 」,2018文化財ウィーク(62)「文久(ぶんきゅう)3年(1863)に焼失後、元治(げんじ)元年(1864)に再建された西丸仮御殿の全体図です。一部が2階屋として糊付されています。結局、本丸は再建せず、この西丸も白書院のかわりに黒書院を設け、屋根や天井の格式を落とすなどした簡略な構造でした。慶応4年(1868)4月に江戸城開城、そして明治6年(1873)まで皇居となった「最後の江戸城」です。(Overall illustration of the Inner Citadel, Front, Central, and Inner Palaces of Edo Castle Nishinomaru Palace)This is the overall diagram of Nishinomaru Palace, which was rebuilt in 1864 after being burned to the ground in 1863. The castle was surrendered in April 1868, and it was used as the Imperial Palace until 1873.」,2013文化財ウィーク(50)「展示資料49の指図の1階部分です。展示資料49の図には、薄様(うすよう)の紙に2階部分が描かれたものが張り付けてあります。2階中央には「海事方(かいじかた)」という部屋が描かれ、幕末の欧米列強に対応する幕府の姿が垣間見えます。薄様の貼り紙の下には、ここに示した西の丸御殿の1階部分の表・中奥が描かれています。」,2010文化財ウィーク『黒船が来た!』図録解説p.24「文久3年(1863)年に焼失後、元治元年(1864)に再建された西丸仮御殿の全体図。本図左側に「二階絵図」 と書かれた貼り紙があり、幕末に新たに設けられた「海 軍方」や「外国方」等の執務室が見える。余白には造営 に関係した役人名と職人名があり、最後に「大棟梁甲良 筑前」の名が記されている。」,2006文化財ウィーク(20)「元治元年(1864)7月完成の西の丸仮御殿の全体平面図である。彩色は、表御殿は黄色が表、薄紅が中奥となっている。大奥は黄色が御殿向、薄紅が長局、薄橙(だいだい)が広敷(ひろしき)である。広敷は男性役人の執務室である。図左側の、表御殿の玄関・大広間と中奥の東側部分には、「二階絵図」とかかれた大きな貼り紙がある。二階部分には外交関係役職の執務室「外国方」「御目付方外国掛」等が見える。貼り紙をめくった一階部分の大広間の横には、将軍が出かけるときの正式玄関である御駕籠台(おかごだい)がある。ここから慶応元年(1865)5月、将軍家茂が長州征伐軍を率いて出陣した。上余白に総奉行老中水野和泉守、最下段に大棟梁甲良筑前の名がある。その他役人名、諸職人名を記す。奥書の「元治元甲子年十二月大棟梁甲良筑前控」から、10代目棟全が竣工後に作成した記録図と考えられる。」,『第3回江戸資料展』図録解説p.26「図上の色分けは、御殿向き・長局向き・御広敷向き・御土蔵井戸廻(まわ)り等の職掌の区分。甲良家文書で、本図のように大奥もあるのは珍しい。縮尺は300分の1。1部が2階建で、2階は糊付されている。余白に普請に関係した役人・棟梁等の人名が記入されている。これには「元治元甲子年」[西丸仮御殿御普請絵図]の黒印を押した小紙片を張りつけてある。」,『第1回江戸資料展』図録解説p.13「文久3年6月、嘉永5年の建物を焼き、続いて11月本丸・二ノ丸も焼失。その5年後に明治維新を迎えるという物情騒然たるときに、3つの殿舎の再建は不可能で、本丸は再建できずに終り、西丸も旧来とは似付かぬ粗末なものであったので「仮」の字がつけられた。明治5年まで明治宮殿となった建物である。1部が2階屋で、2階部分が糊付されている。」
文庫名 東京誌料
請求記号 6171-21/東6171-021
資料コード 4300031497
製作者 東京都立図書館
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本資料のURL

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