資料解説
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2023文化財ウィーク第二会場(8)「大広間から白書院に至るまでの松之廊下、および御三家部屋、桜溜(さくらだまり)、数寄屋(すきや)の平面図。松之廊下は大広間側から進むと右側が中庭に面し、左側には「御三家部屋」や加賀金沢藩主・越前福井藩主などが将軍に拝謁するための控室である「下之部屋」、諸役人の詰所などの諸室がありました。この諸室との境の張付壁に松と千鳥の障壁画が描かれていたことから「松之廊下」と呼ばれ、一部の部屋が2階建ての構造になっていました。(Illustrated Map of the Matsunorōka and Surrounds )This floorplan shows the Matsunorōka corridor that connected the Ō-hiroma and Shiro Shoin chambers, and the rooms adjacent to it. The Matsunorōka is bordered on the right by an inner garden, and on the left by the offices of the three branch families of the Tokugawa household, the daimyō lords, and various officials. Matsunorōka means "pine corridor," a reference to the images of pine trees and birds painted on the walls and sliding doors separating the corridor from the office rooms. 」,2022文化財ウィーク電子展示解説(9-6)「本丸御殿の松の廊下や周辺の部屋などが描かれた平面図です。松の廊下は、大広間と白書院を結ぶ全長約55mのⅬ字型の廊下でした。障壁画として浜辺の松原に千鳥が飛ぶ図が描かれていました。障壁画の内側には御三家部屋などの大名などの控えの部屋がありました。元禄14年(1701)に赤穂(あこう)藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が起こした刃傷事件(にんじょうじけん)の現場として有名です。(Floor Plan of Sakuradamari Tea Room Style Chamber for the Three Tokugawa Branch Households at Matsunorōka, Honmaru Palace)The Matsunorōka was an L-shaped corridor approximately 55 meters long, which connected the Ō-hiroma to the Shiroshoin. It is famous for being the site of an incident in 1701, when a high shogunate official was attacked by a daimyō.」,2016文化財ウィーク『いざ江戸城へ!』図録p.9,2011文化財ウィーク(20)「松之廊下(大廊下)とは、大広間から白書院をつなぐL字型の長い廊下です。全長50m以上もあり、片側は広い中庭、もう片側は浜辺の松原と群れ飛ぶ千鳥が描かれた襖と張付壁(はりつけかべ)でした。その裏側には御三家の殿席である御三家部屋(上之部屋)、加賀前田家・越前松平家などの殿席である下之部屋をはじめ、諸役人の詰所がありました。さらに、その外側を細い廊下が廻り、御坊主などが行き来していました。(Floor Plan of Sakuradamari Tea Room Style Chamber for Gosanke Households at Matsunorōka, Honmaru Palace)The Matsunorōka was a long, L-shaped corridor connecting the Ō-hiroma to the Shiro Shoin drawing room. It had a total length of over 50 meters;one side consisted of an expansive courtyard, while the other side featured walls and sliding doors painted with a shorefront pine grove and flocks of plover in flight. Situated on the other side of those was the Gosanke Beya(Upper Room), the antechamber for the Gosanke households (three households with direct kinship to the Tokugawa household); the Lower Room, which served as the antechamber for the Kaga-Maeda household, Echizen-Matsudaira household, and others; and various offices for government officials.」,2005文化財ウィーク(12)「本丸御殿松之廊下の平面図です。松之廊下は、大広間(本図の右上)と白書院(本図の左)を繋ぐ廊下で、幅2間長さ10間半と幅2間半長さ17間半の廊下がL字型に繋がっていました。また、松之廊下を囲うようにしてある部屋の中には2階建ての部屋がありました。本図では2階部分に紙を載せています。」,2003文化財ウィーク(76)「万延度本丸御殿、松之廊下の平面図。松之廊下は、大広間と白書院をつなぐL字型の長大な廊下、長さは西へ約20m、北へ折れて約35m、巾は約4-5mあった。大広間から進み、左側に御三家部屋等諸室があり、諸室との境・張付壁に松が描かれていた。松之廊下といえば、浅野内匠頭の刃傷事件で有名であるが、事件のあった元禄の構造と当図とは、ほぼ変らないと考えられている。」,2001文化財ウィークリーフレットp.3「この図は大広間から白書院に至るまでの松之廊下、および御三家部屋、桜溜、数寄屋の平面図である。赤穂事件発端の刃傷の舞台になった松之廊下は、大広間から広い中庭に沿って白書院桜溜に続く幅2間半の長い畳敷の廊下であった。この廊下の西側には御三家などが詰める部屋があり、部屋と廊下を仕切る襖には穏やかな海辺の松原と浜千鳥が描かれた障壁画で装飾されていたところから松之廊下と名付けられた。元禄14年(1701)3月14日勅使馳走役の播磨国赤穂城主浅野内匠頭長矩が、高家筆頭吉良上野介義央へ刃傷に及んだ事件から、今年はちょうど300年にあたる。」
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