資料解説
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2024文化財ウィークp.1(1),2023文化財ウィーク第二会場(5)「明暦3年(1657)の大火により焼失し、万治2年(1659)に再建された、本丸御殿の平面図です。本図の本丸御殿は185年存続しているのですが、宝永2-3年(1705-1706)、5代将軍綱吉の時代の状況を描いたと考えられています。本丸御殿は、広大な本丸の敷地をほぼ埋め尽くすように建てられ、「表」、「中奥(奥)」(本図左半分)、「大奥(本図右半分)」という三つの区域から構成されています。(Overview of Edo Castle Honmaru, Front, Central, and Inner palaces)This is a floorplan of the Honmaru palace that was destroyed in the Great Fire of Meireki in 1657 and rebuilt in 1659. The Honmaru palace depicted here is thought to be from the time of the 5th Shōgun, Tsunayoshi in 1705-6. The interior of the Honmaru palace is divided into the Front and Central palaces (shown in the left half of the plan) and the Inner palaces (right half).」,2019文化財ウィーク(61),2014文化財ウィークリーフレットp.1「将軍の住居であり、幕府の政庁でもある江戸城本丸御殿の平面図です。本丸御殿は、表・中奥・大奥の3つの区域からなり、この順に南から北へ配置されていました。南北500mの長さであったといわれています。政治が行われた表と、将軍の私邸である中奥には、明確な境界はありませんが、中奥と大奥の境は、塀で厳重に区切られ、御鈴廊下のみでつながっていました。本図は明暦3年(1657)の大火により焼失し、万治2 年(1659)に再建された、万治度の本丸全体を描いた平面図とされています。天守は、その台だけが描かれています。(Overall plan of the Honmaru Main Keep, Front, Central, and Inner Palaces of Edo Castle (hand-drawn) )This is an overview of the Honmaru Palace, the main section of Edo Castle. This was the seat of government during the Edo period, and also the Shogun's private residence. It was said to measure around 500 meters from north to south.」,2013文化財ウィーク(8)「将軍の住居であり、幕府の政庁でもあった本丸御殿全体を描いた平面図です。明暦3年(1657)の大火により焼失し、万治2年(1659)に再建された本丸御殿です。本丸御殿全体の詳細な平面図というのは非常にめずらしく、江戸城関係のテレビ番組や出版物にしばしばとりあげられています。」,2012文化財ウィーク(54)「江戸城本丸の絵図です。本丸の長さは約500mであったとされています。江戸城本丸は幕府のもっとも重要な政庁であり、将軍の居住空間でもありましたが、火災により計5回焼失し、再建を繰り返しています。本図は、明暦(めいれき)3年(1657)の大火ののち、万治2年(1659)に再建された時の平面図といわれています。」,2011文化財ウィーク(4)「将軍の居所であり、幕府の政庁でもある江戸城本丸御殿は、火災により計5回も焼失し、再建を繰り返しています。本図は、明暦3年(1657)の大火により消失し、万治2年(1659)に再建された本丸全体の平面図とされています。表と中奥の間に明確な境界はありませんが、大奥との境は銅塀(あかがねべい)で厳重に区切られ、御鈴廊下(おすずろうか)のみでつながっていました。」,2008大規模企画展(6)「万治度造営の本丸全体を描いた絵図です。向かって左側が“表”、中央部が“中奥”、右側が“大奥”です。表:公的な場として儀式や謁見に用いられる空間、中奥:将軍の日常の居住空間(執務室や寝所)、側衆や奥医師等の詰所、大奥:御台所の住居、奥女中たちの住まいと詰所」,2005文化財ウィーク(10)「明暦3年(1657)の大火で本丸御殿、天守閣、二之丸御殿が焼失したことにより、万治2年(1659)に再建された本丸御殿の平面図です。本丸御殿は、幕府の政庁・将軍の住居である表・中奥(本図左半分)と、将軍の正室(みだいどころ御台所)の住居を中心とする大奥(本図右半分)からなります。この時の本丸御殿は、表・中奥と大奥の境を銅塀で仕切り、1本の御鈴廊下だけで繋がっていました。」,2003文化財ウィーク(69)「明暦の大火で焼失後、万治2年(1659)完成した本丸御殿の平面図。本丸御殿は、表・中奥・大奥に分かれる。表は儀式と政治の場、中奥は将軍が政務を執り日常住む場(公邸)、大奥は将軍夫人と子女の住まい(私邸)であった。この御殿は185年存続し、天保15年(1844)焼失した。当図は万治度御殿の初期、宝永年間、5代将軍綱吉の時代を描いたと考えられている。当資料群の中では年代が古く、本丸御殿全体の説明に最適で多用するので原資料保護のため、複製を作成した。」,1999文化財ウィークリーフレットp.2「江戸城本丸御殿は、表・中奥・大奥の三つの区域からなり、この順に南から北へ配置されていた。表は将軍の謁見などが行われる公的な場と諸役人の執務の場、中奥は将軍の私的・日常的な場であるが、ここで政務も執っていた。主要な御殿には、大広間、白書院、黒書院、御座之間、御休息、御小座敷があった。大広間は最も格式の高い対面の御殿である。これに次ぐ格式をもつのが白書院で次いで黒書院であった。忠臣蔵でおなじみの刃傷の場は、白書院に向かう松之廊下で起こり、朝廷の勅使接待の場に予定されていた白書院が急遽黒書院に変更された。大奥は将軍の夫人や女中などの生活の場で、将軍夫人の居室を中心とする御殿向、女中の居室が並ぶ長局向、大奥の諸役人が詰めている広敷向から成る。中奥とは御鈴廊下と呼ばれる廊下だけでつながっていた。」
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